昭和49年07月23日 月次祭における教話



 御理解。「上から下へ水を流すのは見やすいが、下から上へ流すのは難しい。道を開くと言うても、ひっぽの凡人から開くのじゃから、物が難しゅうて暇がいる。上のおかげで開かせてもらうのぞ。例え一時は難しい事があっても、辛抱して行く間には徳が受けられると。御理解弟九十節を頂きました。今朝から頂いて御理解です。なるほど上から下へ水を流すのは見やすいけれども、上から下へ水を流すという事は大変難しい事である。」

 丁度合楽の信心が、まあ椛目合楽を通して二十数年間。それは丁度下から上へ水を流すように至難な事であった。そして現在今日ここまでのおかげを頂いて来た。是からは。神のおかげで開かせてもらうのぞと。是からは神様のおかげで開かせて貰うのぞと。今までは、勿論ヒップの凡人からの事で御座いますから、大変に難しい事もあったし、まあ、言うなら大変な修行時代でもあった。
 段々おかげを頂いて、神のおかげで開かせて貰う。それは丁度上から下へ水を流すような、おかげが頂けれる、時期到来と言う様な意味の事を、最近はしきりに頂いております。そこで皆さんがそれをあまりにも、天地がひっくり返るようなお話ですから、戸惑うておるという感じが致します。お話をしても実感として受けられないという気が致します。今まで長年、はぁああいうおかげを頂きたい、あぁもありたいという願いは、切実に持っていながら、お願いはしておるけれども、それがおかげにならん。
 なかばそれを諦めておる、何時かはおかげになるじゃろうと、言う位な気持ちでおったような事でも。ね、例えば神様がおかげに下さろうという。はあほんなこっちゃろうかと言う様な感じがする。けれども今日この九十節を私は頂いておって改めてです、ははぁ今までは下から上へ水を流すような、難しい事であったなと。これからは、ね、神のおかげで道を開かせて貰うという、有り難い時節が到来したと言う事は、言うなら愈々神様の願いが成就すると言う事だと、私は思わせて貰う。
 例えば昔は手紙を出すと致しますと、それを飛脚が預かってそれはどこまでもこう、ね、肩にしてそれを走って持って行った。ね。ああ大変な事だったと思うんです。所が今はどれ位ですかねハガキが十円ですか、手紙が二十円ですか切手を貼ればそれはどこまででも行くのです。もう私は合楽ではそう言う様な飛脚時代から、こういう手紙が出せれると言う様な時代になって行こうとしておる時であるという風に思います。だから切手もなしに出すという訳には参りませんけれども、切手を貼らなければいけない。
 勿論折角出すのですから、内容が何やらかにやら、分からん様な事であってはならない、それが返事がいるものならそれが返上が、又は聞き届けて貰える内容の文面というものが必要である。そこの所の言うならば研究というか。勉強だけは勿論いる訳です。言うならば信心にも、一つの筋道が立って来なければ。願いにも筋道が立っておらなければならないという訳になる。そう言う様な事ではないかと思います。
 先日3年後に開かれます、ここの十年の記念祭がございます。その特別特別と言うかあの委員会が出けました。三回目かの会合が昨日、一昨日でしたか一時の御祈念の後に新館ホールであっておりました。ちょうど四時の御祈念を頂いて、只今そういう大事な会合があっております事を神様にお届けをさせて頂いておりましたら、こう言う様な意味の事を頂きました。
 それで丁度四時半の御祈念を頂き終わって、あちら会議の真っ最中でしたけれども、今こう言う事を頂いたからと言うて皆さんに聞いて頂いた。そして是をとばんに書かせて頂いた。中にもこの事をまあ認識して頂こうという訳です。茨の道を乗り超えて今こそ真の合楽を現す時期到来の胎動を感ずる。信奉者一同ことごとく(不動麗人?)ただ世紀の神願成就の御用にお使い廻しを頂かなければならんと言う事で御座います。
 ここ二十数年間というのは、いわば茨の道であった。そこを乗り超えさせて頂いて、真の合楽顕現。真の合楽を現して行けれる時期が到来した。この合楽を現して行くという事が、天地の親神様の神願。言うならば悲願である。その合楽を現して行けれる、言うなら一つの手本のようなものが出けた。だからその手本であり、見本であるものを言うならば引っ下げて。ね、
 言うなら世界中の人間氏子に合楽を現す事の宣伝をさせてもろうて。人間がことごとく幸せになって行こうと言う様な、大きな願いの元に合楽が御用にお使いまわしを頂かなければならんという意味でございました。ね。合楽が言うならば手本だ。二十数年間一生懸命のまあそれはある意味においては、ね、自力の信心まあ自力とハッキリはするものではありませんけれども、まあ言うならば自力の信心。
 いわゆる言うならば飛脚が自分で、言うなら足を運んで走って持って行かなければならないという時代であった。もう自分が郵便ポストの中へ入れて、二重用の切手さえ貼れば、手紙がどこまで(    )届く様な時代になったというのです。それを世の中の難儀な氏子に伝えさせてもろうて、こういうかくおかげが受けられるんだという、おかげの手本を合楽で、合楽で創り合楽に御縁を頂いておる一人ひとりの皆さんが、ね。
 それを(   )ながらも心の上に、又は家庭の上に現して、それを一つ宣伝して行くという信心。言うなら神様の御用に愈々お使いまわしを頂かなければならんという信心を身につけて行かなければならん。ですから矢張り戸惑いますね。只自分の事だけを一生懸命願うておると言う事が信心だと思うておるような人は、愈々戸惑います。ね。又は自分で特にですね、今まで一生懸命その水行をしたり。
 今日もある方が毎朝お水を頂いておった人がです、何かお水を頂かんごとなったから、こう表紙の抜けたごとして、どうもいけない。だからそのお水を頂いておった、その時間だけを洗濯をしたり、色々まあ何かまあ水を掛る積りで、まあ修行させて貰いよると言った様な方もあった。断食をしておった人達が何かこうね、成程苦しい。成程ひもじい思いでありますけれども、それでも矢張り心の底に何とはなしに信心。心を神様に向けておるという一つの喜びがあったけれども。
 断食が無くなった途端に、何か物足りないものを感ずると言うのですね。拍子抜けをした様な感じ。言うなら手応えを感じないという訳、手応えがない。只参ったり拝んだりだけじゃ何か心頼りない、持たないという訳です。ね。ほんなこっだろうかと皆さんでも思いよりなさると私は思います。ところが何時もです是はいろんな、合楽が様々にこう変わって参りました。変わって参ります度に、こういう生き方だ、こういう在り方だと言う事になりますとです。
 私はそれを是は教会お広前の上に、私の上にもそれを実証して来ております。例えばもう一年半言うようになりますか。合楽で五つの願いという事が言われるようになりますした。ね。私はその事を頂いて、さっそく取り組ませて頂いた。またその為の修行もさせて頂いた。おかげで皆さんも御承知のように、私はしょっちゅう風邪を引いておりましたけれどもです。それ以来、一回も風邪を引かない事実があるです。これは実証です。五つの願いを本気でなさっとる人は、それ以来です。ね、
 体の丈夫を本気で願うと言う事。願わせて頂く、だからこの頃風邪を引いたとか、頭が痛いと言う事は、本当言うたらおかしなくらいである。いかに五つの願いを本気でしとらんかと言う様な風にしか取られない様な感じすらする位にです、合楽では実証的なのです。これは私が、それを現して行っておるのです。どんなに考えてもやっぱ不思議でしょうが。ね、それは私の体の上に現れて来ると言う事は、氷山の一角です。ただ現れておるところが、ほんな少しばかりなのです。
 実際に神様の、この五つの願いを聞き届けて下さるという事は、合楽全体の上に、目には見えないけれども大変な働きを頂いておる、おかげを頂いておる。それが段々なら今日の信心になっておるのです。五つの願いのいわば第一番に、ね、体の丈夫を願えと。何をするにも体が元だと言うので、体の丈夫を本気で願わせて頂いた。その代わりに私はそれ以来、夜食というものを取らない事にしとる。ね。
 それまでは12時、1時という風に遅くなりますと、さあラーメンなっとん作らんかと言う様な事であったり、お茶漬け一杯食べて休もうかと言うておりましたのをです、ね、体の丈夫を願うからにはです、さあ願うただけじゃいかん頼んだだけじゃいかん。その代わりに、自分でも体を大事にしようという、その裏づけの修行と言った様なものが、なされて来ておるです。ね。体の丈夫を願わせて頂く。その代わりにはおかげで、ならそれ以来風邪を引こうとも致しません。
 もう私はしょっちゅう風邪を引いておったんです。熱ほどではないけれども風邪引きだった。ね。五つの願いをさせて頂くようになったら、その五つの願いが、の裏付けの修行をさせてもろうて、それが成程五つの願いをされるようになって、こういうおかげになって来たという、その実証を私はして来とるです。ね。だからやっぱね、願うからにはおかげを頂かなきゃいけません。ね。家庭に不和のなきがもと。私共はおかげを頂いて、それこそ家庭の中に喧嘩、口論など言い争いなどあった事はないです。
 けれども愈々より一層、家庭円満のおかげを頂かせて頂く、家庭に不和のなきが元と仰る、その元を頂く為にです。ね、あの五つの願い以来、私は人を責めるという事を言うまい、しまいと心掛けさせて来ました、頂きました。お前はどうしてこう言う事をするかという事なんです。言うならば責める。お前はどうしてと言う事を言わないようにして来た。これはもう五つの願い以来、実行しておる事です。
 勿論家庭に不和などが起ころうはずはありません。人を責めると言う事を、それ以来慎ませて頂いた。いやもうおかげを頂いて、責めんで済むおかげをだんだん頂いて来た。ね。ですからおかげを頂いておるように、なら子孫繁昌家繁昌と言う事もです、願わせて頂いておるが、これもこれと同じように聞き届けておって下さると言う事を、信心は訳には参りません。ね。
 愈々おかげを頂きましてです、本当の御用が出けますように。その御用の内容はどこまでも、御用である奉仕である、働きであると私は御用の内容を思うております。自分が例えば御用をさせて頂いておる事が、働くと言う事の内容に繋がっておるか。御用という事は奉仕だ。奉仕という事は事に仕えるという事だ。果して仕えるという心持での御用が出けておるか。果して働くになっておるか。
 自分の働いておる事が人に迷惑をかけて居る様な事になっておりゃしないか。私が働いておると言う事がです、周囲にそれだけ旗が楽になる所の働きになっておるかどうかと言う事を検討しながら、それを愈々もっともっと、本当の御用の内容にならなければならないという風に思いその事を念じ続けて、今日五つの願いが段々成就して来てる。ね。愈々、神様の手にも足にも、ならせて頂くほどしの、おかげを頂きたいと、願って来たけれども、どうもそこの所に神様、御用に使うて下さいと言うても、ね。
 神様が使うて下さらなければ、御用が御用にならんのです。そこで私は今度只今申しております所の、言うなら自力の信心から他力の信心へという事に、なって来たんだという風に思うのです。
 他力の信心と言う事は愈々神のおかげで開かせて貰うという信心です。はあもう合楽はこんなにおかげを頂いておるようですけれどもね、是はまあだ神様の下さっておるおかげの、おかげのほんなお印なんです。是は言うならば、自力の信心でここまでおかげを頂いて来たんです。ね。これが他力いわゆる神様のおかげで、自分の力みのない、神様のおかげで開かせて貰うのぞと言う事になって来る事は、丁度上から下へ水を流すように順調さというか、そういうものが出て来なければならないのです。
 だからこういう信心がです、本当に例えば私が申しましております事が、何か戸惑いを感ずるほどしでありますけれども、それがすんなりとして自分達の信心、日常生活の上に、そういう信心が現されるようになった時が、愈々合楽が、合楽を世界に現して行く事の出きれる時だという風に思います。私はこの事を頂いた時にです。もう私はそん時にもう、びっくりするほどしにたまがりました。ね。
 それでもう感動いっぱいで皆さんに聞いて頂いたけれども、何とはなしにですね、あまりにも素晴らしいお話なもんですから、何か何て言うですかね。こう言うなら狐に摘まれたような風な感じだけが返って来てですね。もうそのおかげを頂いた、そん時に何人かの人は、ここへ出て来てから、もう本当に今日の御理解を頂いて感動してから、涙ながらにお礼を申し上げたような方もありました。ね。けれども殆どの人はです、言うならば私の言うておる事が意味が解らなかった。
 解らないのも道理だと思いますけれどもです、そういう言うならば時期に到来したと言うか、そう言う事になって来たのですから、皆さんの信心も今までの信心ではいけない。ね、内容が変わらなければならないと言う事でありました。これはもうあの人は十年も信心しよりなさる、自分はまあだ二年か三年かだからと言う事じゃない。今日初めて御神縁を頂いた人でもです。ね、合楽の信者信奉者として御縁を頂いたかぎりはです、皆がそういう何と言うですか。
 私共が乗らせて頂く、なら極楽行きの船なら極楽行きの船と致しましょうか。その船に全部乗り込めれる資格を頂いておると思うのですけれども、はい乗んなさいと言うても、いや、私が乗って良かっじゃろうかと言うて、戸惑うて居る様な状態じゃなかろうかと、こう思うのです。ね。そこでです愈々私が申しました様に、それを実証して行かなければならない。半信半疑の人にも成程、そういうおかげの開けて来る時代に合わせて頂いておる事を気付かせて頂かなければなりません。
 辛抱して行く内には徳が受けられる。辛抱して来て参りました。おかげで是からは皆さんがお徳を受けて行くという時代。ね、おかげを受けて来たという時代から、お徳を受けて行く時代に入って行かなきゃならん。その内容がです例えば月の(どなた?)でしたでしょうか。言うならば梅の花の信心から、桜の花の信心に成った様な。言うならこげん辛抱せなくても、ね、楽におかげが頂けると言う様な、安易な意味の事を言うておりましたが、安易と言う事ではありません。
 どこまでも矢張り梅の花の信心は、梅の花の信心なんです。ね。ただそれが自力であってはいけないと言う事。言うなら火や水の行から生まれて来る信心ではない。断食をするとか水をかぶるとかという信心から頂くというおかげではないと言う事なんです。どこまでも、自分の心の中に合楽を現して行く。言うなら真善美の世界を広げて行くと言う事なの。いよいよ嘘のないね、真の生き方。愈々悪ではない善の生き方。愈々ね見苦しいとか汚いという世界からですね、麗しいの世界。
 美しい世界を目指させて頂くという事。それが極楽であり、それが合楽を現して行く内容にならなければならない。極楽と言う事は合楽と言う事よりか、もっと程度が低いと思うんです。はあもう私の方はおかげで、もう極楽と言うとっただけじゃいかん。その極楽をです、合楽にして行かにゃん。その極楽を神様にも極楽を味わうてもらう。主人にも家内にも、お客様にもそれを味わうて貰うという生き方にならなければならんと言うのです。これから愈々です。
 この合楽を現して行く事も、自力から他力への信心と言う様なものが色々と実生活の上に感じて来る。又はそれを様々な角度から表現して頂いて、自分の身にして行くと言う事は、になると思いますけれども。ね。今日私はどなたでしたか。ああ桜井先生でしたですか、お話をした事でしたけれども。ずっとこの今朝の御理解の中に、まっ教団でしきりに言っております、教祖に返れとか、ね、全教一心とこう言われます。
 なら教祖に返れと言う事はどう言う事かと言うと、なら百十年という間、金光教の信心が続いて来ておる内にです、いつの間にかどこでか道が間違えて来た。だから一偏元に返らなければいけないという意味だと私は思うんです。それをその辺の所だけを、こう改めようとする所に教祖の信心がです、いわば教祖に返ると言う事が、言うだけで返られない事になっておりますから、いや一応は教祖の元に返らなければいけない。ね。言うならば、金光教の信心が頭でっかちになって来た。
 言うならば願う氏子におかげを授けと仰るのに、願う氏子にお話を授けになっておる。そしてお話が分からなければ助からんと言う事になっておった。しかも分かったけれども、助からんというような事に、すらなって来かねないのです。だから分かろうが分かるまいが先ずは、ね、おかげを授けられる信心にならなきゃいけないという。願う氏子におかげを授けると言う事。そういう働きがです出けないのは、教祖の信心に返ろうと言いながら返っていない。言うならば原点に立ち戻らなければいけない。
 そういう意味でです、私はジッとここ二十数年間の事を思うて来るのに、合楽の場合は、教祖の神様が辿られたような道をです、雛型ながらも合楽は辿って二十数年。そして、今日のいわば道が開けて来ておるんだという事であります。だから、合楽の場合は、その原点に返らなくても教祖の歩かれたような道をずっと二十年間歩いて来た。
 そして教祖が、ね、一番最後の所にです。天地の親神様の願いを受けられてです、世界難儀な氏子を取り次ぎ助けてやってくれという、言うならそういう働きがすんなりと出来て行く所の、所に至っておるのだと。私はそんな風に思いますがねと言うて、今日桜井先生と話した事でした。ね、だから合楽の場合はそこに返らなくても、そこをもう歩いて来ておる。ね。道を間違えなければ、創造が出ける。
 創り上げて行く事が出ける。それをです、例えばそれを茨の道を歩きながらではあるけれども、創り上げて来て今日である。だから今日ここからです、言うなら信心が自力から他力の信心へという風にです。ね、他力本願の信心です(       )。ね、いわゆる神様のおかげで道を開かせて貰えれる所に、時期到来して来ているんだと言う事を、私共が先ず認識させてもろうて。
 その事の内容をもっと、もっと分からせて頂いてです。ね、神様にも喜んで頂けれるおかげを受けなければならない。ね。その喜んで頂くそのおかげというものがです。言うならば、合楽でなからなきゃいけない。自分だけのおかげに止まらずに、神様にも喜んで頂く、私共も喜ばしいという合楽を、のおかげになって来なきゃならんというのです。中々道を実証して行くと言う事はです、決して見やすいものとは思われません。ね、なお一段とそこの所に、信心の精進がなされなければなりませんけれども。
 その精進の在り方が変わってくる、内容が変わってくる。ね。そして天地の親神様の願いであるところの、神願成就のおかげを頂かせて頂く御用にもお使い廻しを頂かなければならん。ね、そういう願いを持たなきゃならん。様々な例えば今まで願ってきた事が、もう中場諦めておったと言った様な事であっても。ね、合楽を現す事のための成就。健康なら健康という事でもです、その健康を持って神様に喜んで頂く御用にお使いまわしを頂く事の為の健康と言う様にです、筋道を立てると言う事はです。
 今日先ほども申します、手紙の言うならば内容に、ね、筋道が立っておる事だと、こう思います。手紙が来たけれども何がなんじゃ一つも分からん、しらごつばっかり書いちゃる、何ちゅう意味か分からんという(    )しないと言う事。そこに様々な筋道を立てた、ね、向こうに返事を求めるなら、返事がすぐ来るような。又はこちらがお願いしたら、その願いが聞き届けられるような内容になって来なきゃいけない。
 言うならば今までは、ね、飛脚があって手紙を持って行きよったような時代から。郵便切手を貼れば、ね、神様が届けて下さると言う様な時代になって来たんだと言う事を、これから、もうあらゆる時にあらゆる角度から、また聞いて頂き。私の物にしなければならない、同時に皆さんも皆さんの物にして行って。合楽の信心の上にです、ね、(   )破れたるものが現れて来るようなおかげを頂きたいと思うのでございます。
   どうぞ。